”一人交換日記”

2018/11/4 Sun. 記す fbに載せなかったやつ

 

別れた、別れたら何が変わるんだろう。そもそも我々は付き合っていたんだろうか。付き合うって何って言い続けてた、お互いを縛り合いたくないと、でも実情は全く逆で、何をするにもいつもいつも一緒、映画を観るのも歌うのも出かけるのも一緒じゃないと気が済まなかった。ワンルームを愛の巣と呼んでくれた人もいた、好き合ってる間は確かにそうだ、でも一人につき一人分のスペースが欲しいフェーズに差し掛かったとき、そこは牢獄でしかない。顔を合わせれば喧嘩、罵り合い、どうしてこんなところにとどまっているんだろう早く出て行こう、毎日毎日そんなことばかり。

 

親密な関係になると必ずといっていいほど、モラルハラスメントの限りなくグレーゾーンにいつもあり、しばしば越えてしまう。喧嘩をすると相手の心をずたずたに切り裂くまで責め立ててしまう。そういう自分をやめたいけど、一度始めてしまったが最後止まらない。際限なく矛盾だらけのことばかり言って相手を困らせることもある。それは甘え方のひとつの形態なんだろうけど、受ける方にとっては害以外の何物でもない。私はある人をモンスターだとか人権侵害者だとか批判していたけど、結局私自身のそういう面をスティグマに感じていただけなんだろう。そしてそれはなかなか根本から解決できるものではない。これまで長い時間自分に向き合おうとしてきたけど、数パーセントも解決してない感じがする。
 
 
親しくなれば相手を深く傷つけるようになる、だから私は誰とも親しくならない方が良いんだ。そう思って心のつながりのあまりない、距離を取った「親しい関係」を築こうという試みもしてみた。毎回会うときを最後だと思って、その瞬間の幸せをその瞬間だけのものだと思って、大事にするけれど執着してはならないと。けれども私は忘れていた、すぐ人を好きになってしまうということを。あっという間に執着が始まる。すぐに私が”メンヘラ”だと感づき離れて行った、それはとても正しい選択だと、思う。
 

丁度良い距離感って、どのくらい。寄り添う、それは際限が無い。どこまでやったら十全なのか。パーフェクトなくらい、お互いのこと何でも知っている気でいたし、説明可能なことは全部説明していた。包み隠さず。普通だったら言わないだろってことまで。あの人が好き、この人が好き、とか。それはやりすぎだ。でも、隠し事があったり、毎日もやもやしているのに決して口には出さないという態度は、誠実さを持った関係性なのかってことを25年間疑問に思い続けてきて、それがあっての「すべて説明する方式」だった。さて、どこまでは話して良くて、どこからは話さないべきだったんだろう?

 

もしくは私がすぐ人を好きになるのが要因のひとつなのか、以前よりは自己肯定できるようになった気でいてもやっぱり無価値感を完全に排せた訳ではなくて、いつも欠乏していて、少しでも親切にされたりなんでもない好意を一瞬向けられるだけで好きになってしまう。

そして根本的に、ひとりの人間と一緒にいつづけるということは他の人とは特別な/極めて親しい関係にはなれないということ。どちらかを取るしかない(すべてをオープンにするのなら。また相手がポリアモリストでない限り)、そこは常に葛藤し続けていた。

 

 

反省してるようで全然懲りて無い感じもする笑、こんなに苦しんでなお、深い関わりが欲しいんだろうか、私は。

人生はフィールドワーク、やってみるしか方法はない、私が私の心身にフィットするrelationshipのあり方をみつけられるまで、あるいは死ぬまでずっと模索し続けるしかないのだろう。

まあ言うて人を好きになるのは楽しい。追いかけるのが好きな私は狩人な性分なのかもしれない。逃げられると追いたくなる。成就はしなくても、まあそれはそれで良いんじゃない。