”一人交換日記”

2019/5/1 スケッチ●ゲーム、生産性、
 
 
2017/11/16、ゲームへの忌避感の話を書いている
ここ数ヶ月なんも進んでないようにも見えるけど、
ゲーム嫌いは克服した、というかすきだったのを(差別感情を乗り越えて)思い出せた!
という進歩(?)(生産性至上主義者からすると退歩)があったわ〜
 
乗り越えたというか(ゲーム実況者とのヴァーチャルでの)良き出会いがあったことと
別々に住むようになってすこし離れて考えられるようになったというタイミングとで。
 
そして「戦いに興味ない」も!戦うの楽しい〜
(うーん、でもシューティングは純粋に的を撃つこと、上達することが楽しいだけなのか、
まあチームが勝ったらちょっと嬉しい)
 
 
 
すこし前までは「実体のあるものでないと」「生活に結びついてないと」駄目、
「無駄な」ものは駄目、って思っていた
でもまず「無駄」にこそ価値があるって思うようになったし
(『生活の役に立つ』度で言えば私が最も価値があると感じる芸術の類は全部『最も必要ないもの』に分類されてしまう)
(もちろん無駄の中にも質の違いみたいなものはあるのだろうが)、
またたとえば木を使って建てた家も、ゲームの中で構築した建造物も、
耐用年数が違うというだけで、いつかはなくなる儚い”モノ”だ
実在するかしないかという違いはあるけど、
人間の面白さは『想像力によって無限に空間をつくりだし不可能を可能にし自由に生きられる』
ことなんではないか、って考え方にシフトしてきた
なんでそうなってきたんだろう??てことはわかんないからこれから辿る、、、
 
なんでだろうな???
やっぱ「つがいになって産む方が偉い」とか「金をつくる方が偉い」とかっておかしいな〜
なんでだろうな〜と考える中で
資本主義社会の中ではあらゆる生産性が崇められているんだな〜と気づき
それなら私が以前信じてた「人のためになる」「役に立つ」
「なにか分かりやすく人の生活の中で”意味がある”」こともその”生産性信仰”と陸続きなんだなー
とすこしずつ気付き始めたからなのかな。
(資本主義によって?)『何に意味があるのか、価値があるのか問われなくなった時代』
とゼミの先生は私の卒論草稿(なおゴミ)に書いてくれたけど、
「金になること」「数値上『成果が上がる』こと」は「いいね!」を得られやすく(価値があると認識されやすい)、
「それがどんな(経済的)効果をもたらすのかはわからない」「っていうか誰に何の得になるのかわからない」
ことはなかなか評価されにくい、というか意味があるかないかもそもそも考えてもらえない(議論の俎上にすら乗らない)
あるいはみんな考えるのを(気づかないうちに)放棄している、って傾向が強まっているのかな
(資本主義ってことは産業革命以後?いつからなんだろ?歴史〜〜〜)
あ〜全然要領を得ないけど思い当たることごとの0.3%くらい書けてるからとりま保留、
 
 
 
だしなんか漠然と「つくらないと、生産的でないと、駄目」「消費者じゃ、だめ」
って強迫観念あったけど、
まあなるべく消費者でなくつくりだす者ではありたいけど、、
それも「なんかとにかくつくらなきゃ、ここにいてはいけないんだ!」っていう恐怖のみから
なにかをつくるのはたぶん無理だし、つくりたくなったらつくればいいんじゃないのー、
って感じになってきた?前よりは、すこしは。
人の『アート』(つくりだしたもの)をみて、
自分もなにかやってみたい!ってなって、つくる、ってのが
自然な流れだし、まあそれもならないときはならないときでいいんじゃないー。
この文章を書くのもなんかつくってることに分類したいな、とか。
一銭にもならないし、広告も置きたくないし、そもそも金になるものを求めてる人たちには読まれないから
絶対金にならんし(笑)、何してるのって聞かれて「思うことを文章に書いてる」っていっても
なんだそれ?って顔されるけど、まあ、まあ。
 
(数日前と比べて考えてることえらいポジティブだな〜
体調と気分の上がり下がりだけなんじゃないの結局〜って気持ちにちょっとなっちゃう、笑)