”一人交換日記”

2018/8/4 20:00 電車でおしゃべり

 

電車に乗る。ずっと議論。なんで最近ずっとギクシャクしてるのか。「喧嘩のたび、なにかすこしずつ壊れてく」あるいは「小さなしこりが積もり積もっていく」仮説。喧嘩に完全な和解はあるのか。根本的な価値観の違いから生じるものであるとき、互いの違いを積極的に受け入れるか、諦めるか、我慢して飲み込むか。その辺の違いって区別がつきづらい。何か言いたいことがあるなら言っていった方がいいのか、言ったところで人は変えられないから余計な労力を使うより最初から言わないでおく方がいいのか。

愛情三年説。あるいは近づきすぎるということ。ずっとサポーティブな気持ちでこれまでやってこれたのに、突然途切れたということ。「なんでそんなこともできないの?なんでいちいちうじうじするの?」突然我に帰るような。いままで"love is blind"で見えてなかったものが突如として見え始める。

なんで気持ちが途絶えたのか考える。他の例を振り返ると、物凄い密度と近い距離感で関わってたらその分早く終わりが来た感じがした。「サポーティブな気持ち」は有限な量のものなのか?んなアホな、

僕のことを現時点で一番理解してくれてると思ってるのはたぶんその人間。でも僕はその人を十分に理解してるとは言い難い。「僕の理解者っていないんだよなあ」確かにな。君は人の話をたくさん聴くけど君の個人的な話をたくさん聴く人はそんなにいない。

二者間の不均衡。それに加え僕がその人を雑に扱うのは、なんでもわかってくれててなんでも許してくれるっていう甘えからなのか、

なんでもわかってくれてるはずなんてないのにね、抗うのを諦めてるだけなのかもしれないのにね。

 

あー随分遠くまで来たもんだな。君に愛想を尽かされることを毎日恐れていた頃が懐かしい。というかその感覚を思い出せないくらいだ。ほんとはそのくらいが丁度良いのかな。

関係の不安定性を自覚していられるくらいが。

わかんないよ、あっという間にひっくり返されるかもしれないし。

 

 

関係の永続性、そんなもんないんだって言って、ひとは結局独りなんだ、一生また一人また一人と取り替えていくしかないんだ、って言ってたけど、それってすごい効率悪いね、という気もする。(効率の問題なの??)

でも他の人間と関わることでしか出てこない私の他のさまざまな面、みたいなものもあって、そういうものを見たくていろんな人と関わってみたい感じはある。けど。それが深いレベルで関わる人である必要があるのかは、、わからない、、、