”一人交換日記”

2019/2/23
 
 
悲しいから悲しみに浸る
バッハのハープシコード協奏曲聴きながら
気になるあの子はあの子のことが好きで、
あの子はあの人にまだ気持ちを持っていて、
あの人は新しい人を見つけて(しかもそれは私の気になってた人だ)、
あの人を思い出すだけで心臓のあたりが締め付けられる思いがするから
視界に入れないようにするけど、
あの子があの人のことで苦しんでるのを見るだけで似た痛みが際限なく沸き起こり続ける
 
痛みがあるからこそ生きてることを感じる
のか?
「これからも一緒に生きていこう」って歌をうたっているのに
ずっと一緒にいることはできないんだという痛みが身体じゅうを刺して
泣きそうになってしまう
 
ずっとどころか、1秒すらも
数時間、数日、一緒にいたと”私”が思っていたとしても
「あなたの記憶の中に、”私”はいない」
あるいは記憶に残ってたとしても楽しかったのは”私”だけ
 
好きって気持ちはゲームの結果でしかないのか?
 
肯定されていたい、肯定されていたいと言いながら
その実求めているのは否定されることなんじゃないか?
なんで”私”に1ミリも価値を見出さない人をいつまでもいつまでも好きでいて
(好きって表現は不正確、じゃあなんなのだろう、
会いたい話したい?一緒にいて特別楽しくもなく楽しませることもできないのに?
必死に見ないようにしながら目の端に捉えるときそのことだけが頭を占める
あの感情は一体なんなんだ?)
(やめろ、反芻するのをやめろ、そうすれば記憶は遠のいていく、
手の届かないところまで、思い出したくても思い出せないくらい遠くへ)
”私”を肯定してくれる人ともっと仲良くなれないままでいるのだろう
「なんで私は肯定されたいんだろう」
『なぜ私は理解されたいと願うのだろう』
 
”私”の人生が、誰かにとって特段興味を惹くようなものでないということを、
あの人にとって何ら面白いものじゃないということを、
外側から見たら何ら不思議でもなんでもない、至極当然のこととして”解る”のに、
そんなことがどうして悲しいの?
なんで誰かにとって特別でありたいと願うの?
 
 
密室だと傷は深くなるがつながりも深くなる
オープンワールドだと逃げ場はいくらでもあるように見えるけど
なかなか浅いつながり以上のものを構築するのは難しい
どこへでも逃げられるようでいてやっぱりどこにも行けないようでもある
 
 
***
 
Fabio Bonizzoni, La Risonanza “Bach: Harpsichord Concertos Vol. 1”
 
Andreas Staier, Freiburger Barockorchester “J. S. Bach: Harpsichord Concertos”