”一人交換日記”

2018/7/20 伏見憲明ほか『「オカマ」は差別か』(2002)

 

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「オカマ」という呼称を非当事者が使うことについて、当事者はどう捉えているのだろうという疑問から読み始めた。

実際の内容はメディアが使うことについてで、ある意味非当事者ではあるものの一個人が使うこととは少し文脈が異なるのか、という感もあったが。

 

裏表紙には「差別の判定は被差別者だけのものでいいのか」と書かれていて、期待した。

部落運動においても「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」というテーゼに内側から異を唱える人が現れた(1987年『同和はこわい考』にて)。それの”ゲイ版”の話となりそうだ。(オカマという言葉にはゲイでないトランスジェンダー・異性装も含まれるはずだが、主宰がゲイだからか今回はそちらに偏り気味ではある)

 

(当事者が)積極的に「オカマ」という語を(「クィアqueer」のように)差別語だったからこそ誇りを持って称することで意味を反転させる、という政治的な戦略もある。それはわかる。

 

メディア上で安易にその言葉を使うこと自体を禁じてしまうことは、誇りを持ってオカマを称している人々を差別することになるし、その存在を見えにくくしてしまうという危惧があるという。

 

この事件の発端となった記事で取り上げられた東郷健のメディアでの現れ方は、そのとき少年時代を過ごした者たちにとってはある種トラウマとなって残っているという。「ゲイだけど、ああいう”オカマ”像にステレオティピカルに当てはめられたくない」「学校で彼をネタにまたいじめられる」などというように。

その時代をサバイブでき、強くなった人々は「彼がやってたことを今ならわかる、独りで闘っておられたいうことが」と言えるけど、サバイブできなかった人々(亡くなった人、”女性”的な要素を押し込めて無理に男性的に振舞いざるを得ず大人になったゲイやストレート男性、)には私は何て声をかけられるのだろう。。。

 

また、過去のゲイたちは自分たちの属性を卑下し笑いに昇華させるなどして強くならざるを得なかった部分があったけれど、現代を生きるやわらかな感性を持った若者たちがそういう形での解放に上手く適応できるのか、ってことにも少し疑問が残る。

 

とりあえず私自身は、『オカマ』がポジティブな文脈で使われることも多々あったこと、『ゲイ』を逆にネガティブに使っていた時代があったこと、つまりここ数十年だけでもかなり意味合い・使われ方に変動があって、地域や年代によってどうにも異なっていること、を知ったしオカマオカマ連呼しすぎてもうただの記号にしか見えなくなってきた。笑

でももちろん人によっては傷つくし、普通にトランスジェンダーとかゲイとか女の子っぽいとか言うだけで十分では。って感じはするけど。本人の望む呼称を最優先に。

この本は2002年だし世代がちょっと上なんだよな。同世代の人たちにも聞いてみたい。

 

***

 

また、最初の主題「被差別者だけのものなのか」に対する明確な答えは出てこなかった。

繰り返し、「被差別者だけでなく第三者の意見を取り入れるべき」と出てくるだけ。

 

オカマという語がそもそも何を指すのかも不明瞭。この本では明確に定義されてるっぽいことになってはいるけど(そしてその雑多な多くの意味を全部網羅していないと「勉強不足」と批判される)、多くの事情に詳しくない人々が使う場合はその認識はたぶんバラバラだろう。

 

知れば知るほどわからんぞ!というかいろんな人がいろんな意味合いを込めて使ってきて、多重で奥の深い言葉になっている。。ジャッジなどできない。

最終的に「使う人の意図」の問題になってくる。そうすると個々人の中の差別意識の話になってくるけど、そこにどうやって入り込んでいくか、ってことまではここでは踏み込まれていない。